ヤノネカイガラムシの天敵導入裏話


 古典的な生物防除の成功事例となったヤノネキイロコバチ・ヤノネツヤコバチの中国からの導入は、天敵利用研究者の永年の悲願であった。導入を主張した人々の個々の論文についてはすでに解説されているので、ここでは幸運にも実際に採集・導入を行った一人として中国での裏話を書き留めておきたい。
 1980年の9〜10月にかけて、農林省と静岡県がヤノネカイガラムシの天敵導入を計画して調査団を派遣することになった。私は農水省果樹試験場に在職していたので、技術顧問と云うことで加えていただいた。それまで中国の広東省方面から香港に出荷される柑橘類を材料として、ヤノネカイガラムシの寄生蜂を調査した経験を持つ私にとっては、千載一遇のチャンスであった。中国での予定調査経路は図の通りであった。北京に到着して最初に訪れた幸運は、調査団に配属された通訳者の時輝氏の存在であった。
 彼女はこの調査団のすべての行程に参加し、精力的に中国当局と調査団の調整などあらゆる面で努力をしてくれた。天敵の採集・導入の成功の裏にはいくつもの”もし○○○だったら不成功に終わっただろう”ということがあった。その第1は通訳が時輝氏でなかったらと考えている。調査団が最初に実質的な交渉を行ったのは、中国農業科学院の生物防治研究所の丘 式邦氏であった。ここで氏は日中間での天敵の取り扱いについての3原則を提案した。この3原則はその後のクリタマバチ天敵の導入やその他の天敵導入に適用され、現在も生きていると考えられる。ちなみに丘 式邦氏は高齢ながら、学会誌”中国生物防治”の編集主幹として健在である。採集・持ち出しの許可を得た調査団は、予定に従って四川省重慶にある中国農業科学院柑橘研究所を目指して北京空港へ向かった。


 
ところが空港に到着すると、重慶の天候が悪いためフライトは中止されることが告げられた。当初から天敵の探索は四川省を中心とする方針であったので、行程を変えることは考えなかった。一日の余裕は北京市内の観光に当てられた。翌日飛行場に到着すると依然として悪天候を理由にして、フライトの中止が通告された。調査団長である故西野操氏は、以後の予定を考慮すればこれ以上は待てないと考えた。この事態は飛行機を予約して故郷に向かう中国の人々にとっても同様で、待合室で一泊した人、生きた鶏をお土産に持った人などが係員に詰め寄るなど騒然となった。西野団長は持ち前の統率力を発揮し、通訳の時輝さんと共に乗客の代表団を作ることを提案し、空港長との交渉の先頭に立つことになった。その交渉で出た解決策は、とにかく重慶に向けて出発すること、もし条件が悪いままならば着陸空港を200q離れた成都とすることであった。この決定を伝えた時の乗客の反応は大変なもので、ほとんどあきらめていたフライトの実現により西野団長は一躍人気者となった。もし西野氏のこの勇気ある行動がなければ重慶での探索はキャンセルされたか、または時間が短くて用意されたヤノネキイロコバチの入手のみに終わり、ましてヤノネツヤコバチの入手はあり得なかった。飛行機は悪天候のためやはり重慶には着陸できず、成都空港に着陸した。直ちに重慶行きの小型機に乗り換え再度重慶を目指した。重慶空港は予想通り厚い雲に覆われ、山間部であることもあり、着陸は素人目にも危険に思われた。そのとき厚い雲の下から2機の小型飛行機が現れたとの知らせが乗客の間に広がった。その飛行機の誘導によって無事空港に着陸したときは乗客全員から大きな拍手がわき起こった。飛行場にはフライトの遅れにも関わらず、柑橘研究所の副所長はじめ害虫担当の王氏等が出迎えに来ていた。研究所からの60kmの山道を3日間もかけ出迎えに来たと聞き、当時の中国の指揮命令系統はすばらしく機能していると関心したが、その後色々と接触を重ねるに従い、日本からの珍客を歓迎する一心と、協力したいという研究者の個人的な気持ちの現れであることを知り感激した。副所長は共産党員の行政官であり、調査団の監視を含む当局の行政的な対応に終始した。 柑橘研究所での交流会では害虫の担当者が管ビンに入った寄生蜂を示し、すでに多数採集して我々に渡す用意ができていることが告げられた。その天敵をル−ペで見た結果キイロツヤコバチの一種(Aphytis sp.)であった。ラベルにはAphytis chrysomphaly採集者 王 代武 と記されていた。西野団長と相談してこのサンプルはいただくが、採集した現地に調査団を案内し、ヤノネカイララムシ寄生葉の採集をさせてくれるようにお願いした。


 
その根拠は、1980年8月京都で行われた国際昆虫学会に出席した、カリフォルニア大学のDeBach博士が知らせてくれた情報があったからである。博士は学会出席前に同所を訪問し、柑橘園でヤノネキイロコバチではない寄生蜂の脱出口らしいものを見たと話された。従って私の関心はキイロツヤコバチの導入とともに、幻の寄生蜂とされていたPhyscus sp.の導入を念願としていた。西野団長も中国側の好意を多としながらも、現地調査をお願いした。中国側、特に副所長は現地の不便さ、日程などを理由に婉曲に断ったが、西野団長は強行に現地調査を主張した。その後相手側の研究員の理解も得て、現地採集実現の運びとなった。もしこの時中国側の意向に従っていればヤノネツヤコバチの導入はあり得なかった。現地は博士が訪れた国営農場であり、我々の望んだ場所であった。

 西野団長はヤノネカイガラをル−ペで脱出口を中心に観察していたが、私は白い厚紙を持ち、枝のビーティングをしていた。初めてすぐ、フランダースの図で見覚えのある白黒のマダラの触角を持ったヤノネツヤコバチの雌成虫が紙の上に現れた。同時に黄色のキイロコバチも落ちて飛び立つのが観察された。急いでその付近のヤノネカイガラムシ寄生枝を採集し、段ボ−ル箱に詰めた。宿舎に急いで帰り、葉からパンチでヤノネカイガラを打ち抜き、新聞紙の上に置いて乾燥するようにした。一部は西野氏の提案により枝のまま新聞紙で包み、小包としてイエローカ−ド(特別輸入許可証)を付けて成田空港気付けで、静岡で待っている古橋氏宛に送られた。
古橋氏の周到な準備のお陰で小包からの寄生蜂が増殖に移された。パンチで打ち抜いたものはプラスチック管ビンに蜂蜜をしみこませた木綿を入れ、羽化の経過を見ながら調査団が日本に持ち込んだ。その夜柑橘試験場内の食堂では中秋節をかねた歓迎会が行われ、本格的な四川料理をご馳走になった。調査団全員が待望していた2種の寄生蜂が確保できたという安心感で、心から楽しむことができた。その後予定通り成都へ夜行列車で移動し、その後広州の広東、上海、抗州、北京と柑橘園を調査しながら10月はじめに帰国した。本音を言えば、重慶での採集が成果のすべてであるとの予感から、その後の調査は見学、観光をかねて中国各地の研究者と楽しく余裕を持ってお付き合いすることができた。その後、日本での増殖放飼は静岡・長崎ともに順調に進み、全国柑橘生産地帯への放飼へと進むことになった。この文の中で”もし○○○○がなければ”を4回取り上げたが、勿論この計画を作った多くの人々の行動も”もし・・・”に相当することである。現在も導入の実行にあたって多くの幸運と偶然が重なったとの感慨を持ち続けている。

 
この二種の寄生蜂の和名を決めるまでの経過についても記録しておきたい。2種の蜂は直ちに静岡県柑橘試験場の古橋氏によってカリフォルニア大学のDr.DeBach博士に送られ、Aphytisの新種であることがわかり、その後Aphytis yanonensisとして記載された。それに従って西野・古橋氏によりヤノネキイロコバチと命名された。 Coccobius(=Physcus)については、同定のため標本を愛媛大学の立川哲三郎教授の下に西野・高木が持参して、当時の属名であるPhyscus fulvusと確認した後、ヤノネツヤコバチが適当であろうと3名の合意で命名したものである。